文字狂い

オタクにもサブカルにもなににもなれずに死ぬ

文芸部に入ろう

www.845blog.com

何者かになりたい、という完成形ありきの出発はおそらく間違っている。何者かになりたい、という成功体験ありきの計算なんか途中でケアレスミスに潰される。だから数学は嫌いなんだ。わたしはそういうの苦手ででっかい目標に飛びついてしまう。でも一番身の丈にあった成功するフローの例は、目の前の目標を確実にクリアして積み重ねてから自分の肩書を気にするものだと思う。でも何者かになりたい、という欲望は最先端の流行だからわたしは否定しない。

ここで言う地獄のミサワ的な視線とは、「意識高い系」などと言った言葉の揶揄である、と同じ人が後述していた。今の時代、自己実現するには自分で自分を否定しながらも信じなければならない。それは最早特別な才能を育てるための特別な人にしか縁のない試練なんかじゃなくて、母数的に言えば年配の方の人口よりも少ない我々若輩者は、若さをやるだけで既に「特別」なのだ。特別であればこそ、賢くなければ生きていけない。マイノリティなので。(っていうのを松永天馬のツイッターを追っかけたり吉田豪SHOWROOMに出てた松永天馬の話を聴いたりして思いました。面白かった。でも不安定な人をさらに煽っていくのはヒヤヒヤするなあ)

などと関連して思いましたし、そんなことよりもこのブログで面白いと思ったのは「新しい言葉の希望がどんどん野心の手垢に塗れてしまっていて悲しい」という気持ちである。

大体、若い芽は摘まれるものである。言葉は死語になっていくものだし。世の中で正しくいられる人はほんの数人で、あとはみんななにかしら失敗しているから世の中は成立している。その理屈さえわかっていれば、流行り廃りに一喜一憂する暇なんてないです。一喜一憂することこそ、まだ世の中をわかっていない証拠だと思います。わたしも実はわかっていません。一喜一憂するのが嫌だから敢えて流行り廃りの情報入手を拒否している節はあります。

言うならばわたしは昔ほど言葉に希望を見出せなくなりました。そもそも言葉って食品添加物みたいなもので、相手の思惑を妄想することなんて目と目と呼吸音と肌感覚でできます。そのすれ違いを正すために言葉ができたのかな。でも言葉ができたところで何もわからないですね。

この件もそうですけどツイッターで一日中見ている限り、やっぱり文芸部の人たちは言葉に対して凄く真摯で希望を持っているから好きだなあと思います。言葉より洋服が大事だったり、才能が大事だったり、生きることで必死な人もいます。言葉を大事にしていても、どこか擦れている人もいます。でも私の文芸部は言葉を通して道徳や哲学や常識や文化や――つまり世界を必死に解き明かそうとしている姿にほっこりします。

文芸部の連中はすでに「この世界はまったくのくそである」ことを知っています。そして「この世界にはいいところがどこかにある」というのを多分探しに彷徨ってきて西南学院大学に辿り着いたんじゃないですか。そして気が付いたら文芸部がいいところになっていたんじゃないですか。そんな感じで、そんな感じにこれからも生きていけたらいいんだけどなあ。